大信昔話Family story

大信産業株式会社・昔話

大信産業黎明期からのお話

大信昔話・兄弟で振り返る会社と家族の歴史

大信産業・特別対談

田中康貴

田中庸雄

  • Memoir-01

    設立(1954年)当時の仕事と家族

    • 康貴:

      私たちが子どもの頃は多くの企業がそうだったように、生活と家業がひとつながりで、会社や仕事が日常生活と同居していたね。

    • 庸雄:

      まだ日が昇りきらない時間に家の裏戸をドンドン叩く音で目が覚めて、朝が早い農家のお客様に両親が消石灰と硫酸銅を量り売りしていたのを思い出すな。(当時は消石灰と硫酸銅でボルドー液(殺菌剤)を作っていた。)農薬を持って「出作(でさく)」に行っていたんだね。

    開店直後の大信堂薬局

    開店直後の大信堂薬局

    • 康貴:

      因島は島の中の畑だけではなく、出作(でさく)といって近くの島にもみかん畑があって、船で通う農家も多かったからね。農家の人はとにかく朝が早くて、皆さん働き者でしたよ。

    • 庸雄:

      小学校高学年の頃だったかな、親父から「田熊港の桟橋に石灰硫黄合剤を積んだ船が着くから、取りに行って来い!」と言われて、よしっ!とばかりに自転車でとりに行ったことがあるんだけど、とても重くて子どもの手に負えるものじゃなかった。近くにいたおじさんに手伝ってもらったよ。

    • 康貴:

      石灰硫黄合剤はガラスの一斗瓶に入っていたよね。20キロくらいはあったんじゃないかな。

    • 庸雄:

      やっとのことで自転車の荷台に乗せて、ヨタヨタしながら自転車を押して帰ったなぁ。当時は石灰硫黄剤を量り売りして生活が成り立っていたのだから、ずいぶんのんびりしていたのだろうね。

    当時の石灰硫黄合剤

    当時の石灰硫黄合剤

  • Memoir-02

    八代目・田中清兵衛

    ※八代目・田中清兵衛は田中家の本家筋で、「八朔の父」と言われている。

    • 庸雄:

      私が大学を受験するとき、東京の私立大学農学部の面接で「君は因島田熊の出身だが、田中清兵衛の親戚か?」と聞かれて「そうです。」と答えると、面接の先生に最敬礼されたことがあったなぁ。

    • 康貴:

      清兵衛さんは因島の柑橘の指導者で、因島田熊原産の八朔を全国に広めた人だからね、教科書にも出ているくらいの人だよ。 西条農学校の一期生で、後輩の学生を因島の自宅に泊めて、実地研修をボランティアでしていたんだそうだ。八朔と田中家は大きなつながりを感じるね。

    • 庸雄:

      その時に面接の先生も清兵衛さんの世話になったんだろうな。営業で島々の農協に行くと清兵衛さんの世話になったという人が多くて、商売がうまくいったと親父が言っていたよ。ありがたいね。

    • 康貴:

      大正初期に因島でイセリアカイガラムシが大発生して、拡がりを防ぐためにみかんの木を伐採・焼却していたとき、静岡農業試験場からイセリアカイガラムシを捕食するベタリアテントウムシを取り寄せたらしいね。それを清兵衛さんは屋敷内にガラス温室を立てて増殖させて、多いときには3万頭を農家に無償で配布してまん延を防いだと文献で読んだことがあるよ。

    • 庸雄:

      白いガラス温室は田舎で目立っていたのは覚えているな。

    • 康貴:

      その時代にすでに天敵(生物によって被害を抑える方法)に思いが向いていたなんて、すごいと思う。今になって天敵の利用が叫ばれているんだからね。

    ベタリアテントウムシ飼育室

    ベタリアテントウムシ飼育室

  • Memoir-03

    富造の新分野への情熱

    ※田中富造は康貴・庸雄の父。

    • 康貴:

      戦後、親父が農薬の販売に力を入れ始めた頃は、農業といえば春から夏が忙しく「あとの半年ゃ寝て暮らせ」と言っていたらしい。親父はこれでは経営が上手くいかないと、新しい仕事を必死で探したんだね。
      ちょうど野菜のビニールハウス栽培が始まった頃で、ビニールハウスに取り付けるビニールの加工を始めたんだ。

    • 庸雄:

      注文が来たら家(大信堂)の台所を片付けてビニールの熱溶着をしていたね。そのあとアルミのハドメを手で打ち込む。家には3世代7人で暮らしていたけど、この作業をやっている間は食卓が占領されて、ご飯を食べる場所がなくて困ったのはよく覚えてるよ。

    • 康貴:

      ビニールの加工も上手くいき始めて、農業用資材の販売も増えていくんだけど、親父の語り草になっていたのはクロスシート(ブルーシート)の加工を始めたときの話だよね。

    • 庸雄:

      嬉しそうによく話していたな。

    ブルーシートの加工(熱溶着)の様子

    ブルーシートの加工(熱溶着)の様子

    • 康貴:

      それまでクロスシートはミシンでつないでいたから、水漏れがあったり耐久性も低かった。それを親父のアイディアで熱溶着しようと。

    • 庸雄:

      三原の東洋繊維(のちのトスコ)と協力して、熱溶着の機械を開発したそうだね。
      その機械は世界で唯一のものだったらしい。

    • 康貴:

      熱溶着のクロスシートは安くて、水にも強く、とにかく売れたんだよね。農業用として開発したんだけど、台風が近づくと防水のために注文が殺到して生産が追いつかずに、営業の社員も夜勤に入って昼夜を問わず製造していたそうだね。

    • 庸雄:

      みんなで力を合わせて一生懸命働いて、うれしい悲鳴だったんだな。親父も自分のアイディアで商売が上手くいったと喜んで、そのあともたくさん新商品を開発した。「タフむしろ」や「マイガレージ」、「配色マルチ」他にもまだまだあったな。特許をとったものもある。

    • 康貴:

      新しい商売でいえば、ゴルフブームが来たときに農薬散布を請け負うグリーンサービス課を始めたのも先見の明があったね。

    • 庸雄:

      ゴルフ場だけでなく神社仏閣や公園・高速道路などに広がって、かん水事業へと展開していった。今では会社の大きな柱になっているよね。

    • 康貴:

      親父はアイディアマンで実行力があった。この商売は性格に合っていたんじゃないかな。

  • Memoir-04

    大きな信用

    • 康貴:

      うちには曽祖父が書いた掛け軸が残っていて
      おごりなき こころを代々の宝にて つきせぬ家の 守りとも見る」と書いてある。
      本人は家訓として書いたつもりはないかもしれないけど、代々受け継がれてきている信念だね。

    • 庸雄:

      会社としてもこの精神を受け継いできたからこそ、長くやってこられたと思う。

    • 康貴:

      「おごりなき心」をもって代々働いてきたことが信用となり、田中大信堂から100年の歴史を刻んで今日に至ったんだね。この信念が継承され、今があることはすばらしいことだね。

      • 田中清兵衛(五代目)

        創業者・田中泰輔の父
        田中清兵衛(五代目)

      • 曾祖父の書

        田中清兵衛の書

大信産業株式会社会社案内パンフレット

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